アポロ11号の偉業とその後 |
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1969年7月16日午前9時32分、眩いばかりの炎を吹きながらゆっくりと、しかし力強くサターンVは地球の引力を振り切るように、月へ向けて旅立ちました。 発射を見守る群衆は歴史的瞬間に立ち会っているのだと言うことを確信し、あるものは神に祈り、またあるものは大空を見上げ歓声を上げました。 この歴史的な飛行はアポロ11号と名付けられた巨大なロケットに乗り込む三人の飛行士、ニール・アームストロング船長、エドウィン・オルドリン月着陸船操縦士、マイケル・コリンズ司令船操縦士によって達成されようとしていたのでした。 |
アームストロング船長が撮った オルドリン飛行士の写真。 |
アポロはかつて人類が創り出したいかなる乗り物の中で、最も速い時速3万5千キロという速度で約12分後には地球を廻る軌道に達していました。 打ち上げから2時間44分後に、アポロ11号は第3ロケットブースターを点火し、月に向かう軌道に入ったのでした。 7月19日にはアポロ11号は月を廻る軌道に乗り、翌20日の朝にはアームストロング船長とオルドリン操縦士の乗った月着陸船イーグルは、司令船から切り離され、「静かの海」の着陸地点に向けて周回をしたのち降下を始めました。 打ち上げから102時間45分40秒を経て、7月20日午後4時17分40秒に月着陸船イーグルは「静かの海」に着陸しました。 |
記念すべき人類の月面第一歩。 |
その後準備を整え午後10時56分15秒、アームストロング船長は月面に初めて降り立ちました。 「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な躍進だ」と有名な言葉を残し多くの人々を感動させました。 後に、この言葉はNASAが用意したものではないかと疑われることとなりましたが、嘘偽りなく彼の本心からの言葉だったのでした。 |
アポロ11号の船外活動でアメリカの国旗と 写真を撮る宇宙飛行士アルドリン飛行士。 |
月面での活動はテレビ中継され、全世界の数億人にも上る人々が、飛行士達の様子を固唾を呑んで見守りました。 二人の飛行士は月着陸船イーグルの周りで、様々な観測装置を設置し、周囲の様子を写真に収めます。 これらの機器は、彼らが飛び立った後も地球に向けて月面のデータを送り続けました。 |
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月面での活動は21日午前1時9分に終了し、採集された岩石21kgは地球に持ち帰られ、様々な研究が行われたのは勿論ですが、持ち帰られたすべてを調べ尽くしたのではなく、将来新たな技術で調査できるように、計画的に保存したうえで調査を行うこととされました。 |
宇宙実験室スカイラブ |
長い道のりを辿り、7月24日午後0時50分、3人の飛行士を乗せたカプセルは、真っ赤なパラシュートを張りながらハワイの南西約1500kmの海洋に着水しました。 こうして1960年代が終わる前に人間を月へ着陸させ、安全に帰還させるというアメリカの目標は達成され、世界中の人々に熱狂的な歓迎を受けたのでした。 しかし、NASAは失敗した時のために飛行計画を年内に3回も予定していたのでしたが、実際には11号と12号の2回だけとなりました。 人類史上最も大きな挑戦は、冷戦という状況下で莫大な予算を投入して繰り広げられた、全く新しい戦争でした。 |
スペースシャトルディスカバリーの打ち上げ |
人類史上最も過酷な挑戦であったにも関わらず、アポロ1号での3名の犠牲者しか出さなかったことと、後の平和的な宇宙開発と科学的成果に繋がった功績は非常に大きなものでした。 その後アポロ計画は17号で打ちきりとなり、平和的利用として宇宙実験室スカイラブ計画や、ソ連のソユーズとのドッキングと言った目的に使われて行きました。 ソ連に月を領土とされる事だけは阻止したかったアメリカは、アポロ計画の成功後、宇宙開発は平和裏に行われ人類の共有財産とし、一国家の領土とする事を禁止するよう提示しました。 ところが現在でも軍事的な目的での宇宙開発は続いており、アメリカ国防総省長官名での貸し切りにされたスペースシャトルは何度も打ち上げられています。 |
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アメリカの軍事的宇宙開発はNASAの数倍もの予算を使って秘密裏に行われています。 レーガン大統領時代のSDI構想(戦略防衛構想)によって生み出された高精度のセンサーや様々な撮影装置の試験のため月に向けられたクレメンタイン探査機は、2ケ月の任務の後、その任務は秘密の中に埋もれています。 来年には、本場アメリカでも月面到達30周年の記念行事が予定されていますが、これを機会に宇宙の平和的開発について考えてみたいものです。 |