太陰暦
暦は私たちの生活にとって、また歴史的にも極めて重要な役割を持っています。 仏教伝来以前の暦、そして太陰暦、近代化と共に受け入れたグレゴリア暦と、月について考えて行く内に暦という存在に次第に興味を持って見るようになりました。 |
陰 暦
日本の暦法の歴史
古代中国の暦注
二十四節気
月の呼び名
月待ち
十日夜
十三夜
十五夜
『13の月の暦』
ホゼ&ロイディーン・アグエイアス夫妻
ホゼ&ロイディーン・アグエイアス夫妻は、マヤの暦と数学を研究されてこられた方です。 月が1年に28回自転していることに着目し、1年を13月、1月を28日とする『13の月の暦』を提唱し、この暦を用いることによって人々はより自然に合致した生活を営むことが可能になるという説を唱えています。 |
< 陰 暦 >
陰暦とは、太陰暦と太陽太陰暦を総称する言葉です。 太陰とは月のことを言います。 太陽の対語として呼ばれるようになりました。 太陰暦は月の満ち欠けだけに基づく暦です。 電気やガスなどの明かりがなかった時代には、月の満ち欠けはとても大切なことでした。 また、月は潮の満ち引きと密接な関係があることに気づいていた人々が、月の周期を暦として取り入れた太陰暦が作られて行ったのは自然なことであったと思います。 しかし、季節の変化を正確に知るために1年の周期を知る必要もありました。 季節の変化に合わせた1年の長さは、月の周期である1朔望月(約29.5日)の正数倍にはなりません。 1月(朔望月)の12倍では短すぎ、13倍では長すぎることになります。 純粋な月のサイクルに基づいて作られた太陰暦は、次第に季節を意識して365日を1年とする季節の変化を取り入れて行きました。 特に農業を営む上では、季節と月名が大きくずれてしまうことが無いように1年を12カ月や13カ月に調整する暦を、太陰暦から太陽太陰暦として発達させて行きました。 世界に見る陰暦では、現在でも1年の月数を一定にした大陰暦も存在しています。 古代イスラムの暦は、1年を12カ月とし平年は354日で、奇数月は30日、偶数月は29日の定朔法で、19回の平年に、11回の割合で置かれる閏年は12月が30日となります。 30年間に30日の月が191回、29日の月が169回となり、平均の1ヶ月の長さは29.53056日と、一朔望月(29.53059日)に極めて近く、太陽暦に換算して2千数百年に1日の誤差を生じるだけでした。 これは現代のグレゴリオ暦の3000年に1日の誤差に匹敵する精度です。 現在でも回教国では宗教的行事をイスラム暦によって執り行われています。 一方、チグリス、ユーフラテスの両河に栄えたメソポタミア文明の中でも代表的なバビロニアでは、古くから太陽太陰暦を発達させていました。 しかも西暦紀元前8世紀には、19年に7回の割合で閏月を置く置閏法を発見していました。 ギリシャでは当初8年3回の閏月を置く方法が考えられていましたが、紀元前5世紀の天文学者メトンにより、19年に7回の閏月を置く方法が採用されました。 この19年という時間は、太陽年と朔望月が、かなり正確に一致する周期で、メトンの名を取り現在でもメトン周期と呼ばれています。 中国でも古くからこの周期知られていました。 19年のことを章と呼び、「十九年七閏の法」として19年に7回の閏月を置くことが、西暦紀元前5世紀頃から行われていました。 一朔望月は29.530589日であるために、29日と30日の月を適当に配置して月の初日(ついたち)を朔とあまりずれないようにして行くことは、太陽太陰暦でも最も難しいことでした。 また1年を12カ月とすると354日から355日となり、一太陽年には11日も不足してしまいます。 そのまま続けて行けば季節は大幅に狂いイスラム暦の様になってしまいます。 そこで時々閏月を入れて13カ月の月を作り季節と合わせました。 しかし問題はこれをどのように入れるかで、8年に3回置く方法では総月数が99カ月で平均日数は2923.5日で8太陽年の2921.9日とは1.6日多すぎてしまいます。 中国で行われた十九年七閏の法でも、19年間の総月数は235カ月で、平均日数は6939.69日となり、19太陽年の6939.60日に対して0.09日という僅かな誤差を持っていました。 この僅かな差も220年で1日季節が早くなり、長い歴史の中で何度も置閏を行わざるを得ませんでした。 朔のずれが無く、必ず朔の時に起きる日食が正確に月の初日(ついたち)に当たり、様々な天文現象も予報できる精密な暦法が中国の数千年にも及ぶ歴史の中で求められて来ました。 太陽にも太陰にも忠実であろうとする太陽太陰暦が、複雑な構造になって行ったのは至極当然のことでした。 これを解決しようと古来から太陽太陰暦には無数の暦法が考案されました。 そして太陽太陰暦を中国から取り入れた日本でも、同様に精密な暦法を求めて行ったのです。 月の初日を平均の朔ではなく、真の朔で求めようとした日本人と中国人の気質だったのかも知れません。 そして、太陽太陰暦の中でも最も完成された暦法と言われるのは、日本の江戸時代末期に登場する天保暦(てんぽうれき)でした。 月の周期の初日(ついたち)に起こる日食などの天文現象と、太陽の周期である季節とも一致する暦とは、明治の始めまで続いた太陽太陰暦が求め続けた課題であったと言えるでしょう。 |
<日本の暦法の歴史>
日本で行われた暦法は次の通りです。
(年代は資料により1・2年の違いがあります)
692年(持統天皇6年)
元嘉暦(げんかれき)
製作者:何承天(南朝宋)
日本で採用された最初の暦法。
697年(文武天皇元年)
儀鳳暦(ぎほうれき)
製作者:李淳風邪(唐)
764年(天平宝字8年)
大衍暦(だいえんれき)
製作者:一行(唐)
858年(天安2年)
五紀暦(ごきれき)
作成者:郭献之(唐)
大衍暦と併用されたとも言われます。
862年(貞観4年)
宣明暦(せんみょうれき)
作成者:徐昂(唐)
823年間も施行され貞享の改暦の時に
2日間程のずれがあったと言われています。
1685年(貞享2年)
貞享暦(じょうきょうれき)
作成者:渋川春海
日本人の手で作られた最初の暦法。
1755年(宝暦5年)
宝暦暦(ほうれきれき)
作成者:安倍泰邦 他
1798年(寛政10年)
寛政暦(かんせいれき)
作成者:高橋至時・間重富
1884年(弘化元年)
天保暦(てんぽうれき)
作成者:渋川景佑
オランダの「ラランデ暦書」に基づき作成。
1872年(明治5年12月)
太陽暦(グレゴリオ暦)
原作成者:グレゴリウス13世
<古代中国の暦注>
古代中国において、黄道に近い天空の部分を28に分け、それぞれを宿と呼び、その近くの星座名をつけたものです。 月(太陰)は、恒星に対して27.3日(恒星月)で一周するため、天空を28に区分して月の運行から、朔日(新月)での太陽の位置を推定し、季節を正すために設けられたものです。 周の時代に始まりインドに渡り、ふたたび唐の時代に中国に戻ったものです。 インドでの宿は27宿で、日本には仏教と共に「宿曜経」として伝えられました。 日本では最初インドの27宿を採用していましたが、貞享改暦以降中国の28宿が採用されて行きます。 高松塚古墳の天井には、28宿の諸星が描かれているそうです。 宿名と距星名(現在名)を以下に示します。 |
宿名 |
所属 星数 | 距星名 | 日本和名 | 現在名 |
バイエル・フラムスチード ・固有名 |
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東方七宿 | 角 | 2 | かく | スボシ | おとめ座 | α(スピカ) |
亢 | 4 | こう | アミボシ | おとめ座 | κ | |
4 | てい | トモボシ | てんびん座 | α(ズベン・エル・ゲヌビ) | ||
房 | 4 | ぼう | ソイボシ | さそり座 | λ(シャウラ) | |
心 | 3 | しん | ナカゴボシ | さそり座 | σ(アル・ニヤト) | |
尾 | 9 | び | アシタレボシ | さそり座 | μ | |
箕 | 4 | き | ミボシ | いて座 | γ(アル・ナスル) | |
北方七宿 | 斗 | 6 | と | ヒキツボシ | いて座 | ψ |
牛 | 6 | ぎゅう | イナミボシ | やぎ座 | β(ダビー) | |
女 | 4 | じょ | ウルキボシ | みずがめ座 | ε(アル・バリ) | |
虚 | 2 | きょ | トミテボシ | みずがめ座 | β(サダルスウド) | |
危 | 3 | き | ウミヤメボシ | みずがめ座 | α(サダルメリク) | |
室 | 2 | しつ | ハツイボシ | ペガサス座 | α(マルカブ) | |
壁 | 2 | へき | ナマベボシ | ペガサス座 | γ(アルゲニブ) | |
西方七宿 | 奎 | 16 | けい | トカキボシ | アンドロメダ座 | ζ |
婁 | 3 | ろう | タタラボシ | おひつじ座 | β(シェラタン) | |
胃 | 3 | い | エキヘボシ | おひつじ座 | 35 | |
昴 | 7 | ぼう | スバルボシ | おうし座 | 17(エレクトラ) | |
畢 | 8 | ひつ | アメフリボシ | おうし座 | ε | |
觜 | 3 | し | トロキボシ | オリオン座 | λ(メイサ) | |
参 | 10 | しん | カラスキボシ | オリオン座 | ζ(アルニタク) | |
南方七宿 | 井 | 8 | せい | チチリボシ | ふたご座 | μ(テジャト・ポステリオル |
鬼 | 5 | き | タマオノホシ | かに座 | θ | |
柳 | 8 | りゅう | ヌリコボシ | うみへび座 | δ | |
星 | 7 | せい | ホトオリホチ | うみへび座 | α(アルファルド) | |
張 | 6 | ちょう | サリコボシ | うみへび座 | ν | |
翼 | 22 | よく | タスキボシ | コップ座 | α(アルケス) | |
軫 | 4 | しん | ミツカケボシ | からす座 | γ(ギェナー) |
<二十四節気>
古代の中国で始められた、季節を変わり目を示す日。 1年を24の節に分け、その節の最初の日に名づけられています。 太陰暦では、朔の日を必ず毎月1日にします。 したがって暦上の1ヶ月(暦月)は、朔の日から次の朔の前日までで、その長さは朔望月に等しいことになります。 朔望の平均の長さは29.530589日ですから、1暦月も時によっては29日になり、時によっては30日になります。 29日の暦月は小の月、30日の暦月は大の月と呼ばれていました。 このような太陰暦における1年の長さを計算してみましょう。 1暦月の長さは1朔望月ですから、1年の長さ=12暦月=29.530589日×12=354.3671日となり、季節が巡る周期である1太陽年(365.2422日)よりもざっと11日不足になります。 暦と季節とは毎年これだけづつ食い違って行きます。 それでは暦の役目をしませんので、時どき1年を13暦月にして、暦と季節とが大きく食い違うことを防ぎました。 こうして13暦月になった年が閏(うるう)年、余分に入れた1暦月が閏月です。 実際には19年に7年が閏年でした。 閏年を入れることによって、暦と季節が大きく食い違うことは防げましたが、閏年のなると1年の日数は382日か383日となり、そうでない平年には354日か355日となり、毎年同じ月日の時に同じ季節になりません。 これは特に農業では大変困りました。 種まきをするにも暦を100パーセント信頼できないのです。 それで暦に季節の移り変わりを示す目印し点を書き込むことにしました。 これが二十四節気です。 春分点を基準にして、黄道を24等分します。 1区画の長さは15°づつです。 太陽がこの区分点を通過する時を節気として名づけました。 |
四季節気名 | 月節月 | 太陽(黄経) | 太陽暦の日付 |
立春 | 正月節 | 315度 | 2月 4日頃 |
雨水 | 正月中 | 330度 | 2月19日頃 |
啓蟄 | 二月節 | 345度 | 3月 6日頃 |
春分 | 二月中 | 0度 | 3月21日頃 |
清明 | 三月節 | 15度 | 4月 5日頃 |
穀雨 | 三月中 | 30度 | 4月20日頃 |
立夏 | 四月節 | 45度 | 5月 6日頃 |
小満 | 四月中 | 60度 | 5月21日頃 |
芒種 | 五月節 | 75度 | 6月 6日頃 |
夏至 | 五月中 | 90度 | 6月21日頃 |
小暑 | 六月節 | 105度 | 7月 7日頃 |
大暑 | 六月中 | 120度 | 7月23日頃 |
立秋 | 七月節 | 135度 | 8月 8日頃 |
処暑 | 七月中 | 150度 | 8月23日頃 |
白露 | 八月節 | 165度 | 9月 8日頃 |
秋分 | 八月中 | 180度 | 9月23日頃 |
寒露 | 九月節 | 195度 | 10月 8日頃 |
霜降 | 九月中 | 210度 | 10月23日頃 |
立冬 | 十月節 | 225度 | 11月 7日頃 |
小雪 | 十月中 | 240度 | 11月22日頃 |
大雪 | 十一月節 | 255度 | 12月 7日頃 |
冬至 | 十一月中 | 270度 | 12月22日頃 |
小寒 | 十二月節 | 285度 | 1月 5日頃 |
大寒 | 十二月中 | 300度 | 1月20日頃 |
<月の呼び名>
古来から人々は見上げてきた月を色々な名で呼んでいます。
暦月の日ごとに呼ばれていたものですが、
今でも月齢毎に使われているものもあるようです。
日数 | 月齢 | 呼び名 | 由来ほか | |
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1 | 0 | 朔月(さくづき)・新月 |
毎月の第一日目の月。 朔とは「遡る(さかのぼる)」の意味で、新月では月が全く見られないことから、三日月の背景にある二十八宿の星座を用いて、二日遡った場所が朔日(ついたち)とされたことに由来しています。 |
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2 | 1 | 二日月 |
既朔(きさく)ともいわれる。季語では旧暦8月2日の月をいいます。 江戸初期には吉原などの遊里の勘定は「二日払い」と定められていたそうです。二日月は恐い夜だったようです。 |
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3 | 2 | 三日月・眉月・朏魄・若月・初月・虚月・蛾眉・織月・他多数 |
「朏」(ひ)と書いて「みかづき」と読み、姿が初めて見え出した月を表す言葉が語源。季語では旧暦8月3日の月をいいます。 原始の太陰暦では、新月の見えた日(三日月)を新しい暦日の始めとしていたことから異名が非常に多い。JISコードに無い漢字が多く掲載できないものが殆どを占めます。 三日月の鋭い形から霊力があると思われていたようです。 |
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4 | 3 | 四日月 |
四日目ころの月をいう。 このころ最も地球照が美しい時期で、古くから中国では輝いている部分を魂、暗い部分を魄として、生命活動や魂のありようと関連して見立てられていたようです。 |
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5 | 4 | 五日月 |
五日目ころの月をいう。 五節句の一つ端午は、旧暦五月五日の男子の節句ですが、古くは「初五」の意味で、端は月初めを指し、午=五として上旬の午の(うま)日や毎月の五日の日を言い、五月以外にも使われていました。 三月三日の上巳(雛節句)も同様に上旬の巳の日として、毎月使われていました。 |
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6 | 5 | 六日月 | 六日目ころの月をいう。 | |
7〜8 | 6〜7 | 七日月・上弦の月・弦張・恒月・半月・破鏡 |
月入りのとき弓を張ったような形に見えるところから上弦の月・上の弓張り・玉鉤(ぎょっこう)ともいう。玉鉤とは古代中国に儀式のとき革帯をとめた玉で作ったかぎのことだそうです。 今で言うバックルでしょうか?季語では旧暦8月7日の月をいいます。 下弦の月を含めて弦張(ゆみはり)・恒月(ゆみはり)・半月・破鏡の異名もあります。 |
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8 | 7 | 八日月 | 八日目ころの月をいう。 | |
9 | 8 | 九日月 |
九日目ころの月。 旧暦9月9日の御九日(おくんち)には収穫を祝う。 |
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10 | 9 | 十日夜・十日月 |
十日目ころの月。 旧暦10月10日の夜には収穫を祝う。 十日夜については、下部に別記あり。 |
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11 | 10 | 十日余りの月 | 十日を過ぎて見られる月の意味。 | |
13 | 12 | 十三夜月・十三日月 |
特に旧暦の9月13日の十三夜は「のちの月」として十五夜についで美しいとされ、宮中では月見の宴が催されたそうです。 民間でも秋の収穫を感謝する祭りなどが行われるところが多い。 |
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14 | 13 | 小望月・十四日月 |
望月(満月)の前日と言うことから小望月(こもちづき)という。 また、幾月(きぼう)と呼ばれることもあるそうです。 |
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15 | 14 | 十五夜月・十五日月・望月・満月・三五月・待ち宵月・名月 |
暦法が未熟だった頃、満月の日が年によって1日前後ずれることがあるため十四日・十五日・十六日の三日間を「もち月」としていた頃もあるそうです。 十五夜は名月・中秋の名月等と呼ばれ酒宴を開き、詩歌を詠じ、すすきを飾り、団子・里芋・枝豆・栗等を盛り、神酒を供えて月を眺めた。 「中秋」は旧暦8月15日のことで、7月を初秋・8月を仲秋・9月を晩秋と呼んだことに由来するそうです。二十四節気にも繋がりを持ちます。 逸話や由来は山のように存在して、それだけでWWWサイトが出来るくらいの情報量があり、ここだけでは到底紹介しきれない程です。 |
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16 | 15 | 十六夜・十六日月・既望・哉生魄・不知夜月 | 十六夜(いざよい)は「いさよう」「いざよう」からきた言葉で、ためらう・遅れるの意味から、満月より月の出が遅く月がためらっていると見立てて名がついたとされています。特に旧暦8月16日の月をいいます。 | |
17 | 16 | 立待ち月・十七日月・座待ち月 |
立ち待ち月とは満月の月が出る時間から突っ立て待って居るうちに月が出てしまうからとか、または、立ちながら待っていても疲れないうちに出て来るなどの意味があるようです。 季語では特に旧暦8月17日の月をいいます。 |
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18 | 17 | 居待ち月・十八日月 | 居待ちとは、座って待つことで十七日月よりさらに月の出が遅いため立って待っていたのでは疲れてしまうからという意味です | |
19 | 18 | 臥し待ち月・寝待月・十九日月 | 臥し待ち(ふしまち)・寝待ちとは、19日頃には満月の月の出から4時間程遅くなることから、もはや月は寝て待つということになる意味です。 | |
20 | 19 | 更待ち月・二十日月 | 夜も更けてからようやく出る月と言う意味で、季語では特に旧暦8月20日の月をいいます。 | |
21 | 20 | 二十日余りの月 | 二十日を過ぎて見られる月の意味。 | |
22〜23 | 21〜22 | 二十三日月・下弦の月 |
満月から新月の中間に位置して、月入りの際に半月の弦が下向きとなることから下の弓張りともいわれる。 16日以降は朝まで月が残るため「有明の月」とも呼ばれます。 13・15・17・23日には月待ちという月を祭る行事が特定月に行われたようです。(正月・5月・9月・11月など) |
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26 | 25 | 二十六夜・二十六日月 |
陰暦の正月と七月の26日にも夜半に月の出るのを待って拝したと言われています。 月光に阿弥陀仏・観音・勢至の三尊が姿を現すと言い伝えられ、特に江戸では七月に高輪・品川などで、盛んに行われそうです。 |
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27 | 26 | 二十七日月 | 二十七日目ころの月をいう。 | |
28 | 27 | 二十八日月 | 二十八日目ころの月をいう。 | |
30 | 29 | つごもり・晦日月・三十日月 |
月が太陽に近すぎて姿が見えないことから「月隠」(つきごもり)が変化した晦(つごもり)は毎月の最終日を言うようになる。 農家では三十日そば(つごもりそば)を食べる習慣から年末にそばを食べる風習が今に残ったそうです。また、借金の精算日ともあります。 |
追加資料:海外の月の呼び名
< 月 待 ち >
十三夜・十五夜・十七夜・二十三夜・二十六夜などの特定の月齢の晩に月待ちを行なう、しきたりがありました。 月待ちとは人が沢山集まって(多くは女性のみの講と言う場合が多かった)供物を備えて月の出るのを待ち、月を拝んで飲食を共にすると言う、月を祭る行事でした。 月待ちの「待ち」は、現在では月の出るのを待つ意味に解釈されていますが、元々は月をマツル(祭る)と言う意味でありました。 特定の月齢の中でも、二十三夜待ちが最も多く行われていましたが、月待ちも毎月行われることは少なく、正月と十一月だけであったり、正月・五月・九月・十一月のみに行う、と言った地方が多いようです。 |
< 十日夜>
十日夜(とおかんや)について、色々と分かって来ましたので、お話しさせて戴きます。 まず最初に十日夜(とおかんや)は、俳句や短歌の世界に存在する冬の季語でもあります。 調べ始めると、まず十日夜(とおかんや)は、”旧暦の十月十日の夜に行う収穫の祝いのことを指す”とあります。 主に西日本で行われる亥の子(いのこ)の祝いに対して、中部関東以北の民間では、旧暦十月十日に「十日夜」と言う、刈り上げ祝い(収穫祝い)の行事があるそうです。 この日、刈り入れが終わり、田の神が山に帰ると言い伝えられ、子供達がわらで作った鉄砲で地面を叩きながら、「♪十日夜いいものだ、朝そばぎりに、昼だんご、夕飯食ってひっぱたけ♪」などと唱え歩くそうです。 これによって、モグラ除けの呪いにもなると言われているそうです。 お正月の”土竜(もぐら)送り”の行事にも相通じるものがありそうです。 その他では、長野県や山梨県の一部でも、田の神がこの日に帰ると信じられ、案山子上げ(かかしあげ)を行って、庭先に立て田の神祭りをするそうです。 また、西日本では亥の子(いのこ)と言い、旧暦十月の亥の日に行うともあります。 亥の子の祝いとして、”亥の子突き”が行われるとありました。 ”亥の子突き”とは、亥の子の祝いの行事として、子供達が新わらを縄などで巻いて、棒にしたものを手に持ち、村の家々を廻り地面を叩く風習で、新わらの代わりに丸い漬け物石ぐらいの石にわらを何本も巻き付け、これを子供達が持って地面を叩く地方もあるそうです。 このとき「♪亥の子餅をつかん者は鬼を生め、蛇を生め、角の生えた子を産め♪」などと唱えながら、お餅やお菓子・お小遣い等を貰って歩き、餅やお菓子を貰うと「繁盛せえ♪、繁盛せえ♪」と唱えるそうです。 これは関東以北の十日夜(とうかんや)にとても良く似ています。 このように地面を叩いて歩くのは、大地の生産力を高めようと言う呪術的な意味合いがあったただと言われています。 また、亥の日には、田畑に入ってはいけないとも言い伝えられていて、亥の子の神が農作物の神として信仰されていたと言うことなのでしょう。 埼玉県の川越地方では、十日夜とも亥の子様とも言い、長野県でも十日夜を亥の子祭りと呼ぶことからして、この線を”十日夜”と”亥の子の祝い”とが交錯する地域として考えられているそうです。 いずれにしても、名前は違っても収穫を祝うお祭りであったことに違いはないようです。 もう一つ、静岡県の駿東群では、十日の月が西に沈むまで夜なべをすると、お金持ちになると言う、言い伝えがあるそうです。 亥の子にちなんだ俳句もありました。 眼鏡して 古日記見る 亥の子かな (巖谷 小波:いわや さざなみ) 今年の旧暦の十月十日は11月28日です。 また旧暦十月の亥の日は、11月24日,12月6日,18日です。 |
< 十三夜>
旧暦の九月十三日を指し、秋の季語として知られています。 旧暦九月十三日に行う月見の行事です。 旧暦の毎月十三日の夜を「十三夜」と言いましたが、九月十三日の夜は特別で、古くからこの夜、月を観賞する習慣がありました。 十三夜は新暦で、おおよそ十月中旬から下旬にあたり、八月の十五夜「仲秋の名月」に対し「後の月」とも言われます。 また、十五夜を芋名月と言うのに対して、豆名月や栗名月とも呼びます。 十五夜と同じように供え物をして祝いますが、丁度旬の大豆や栗が主役で、その他に月見団子・柿なども添えました。 十三夜の月祭りは元来日本固有の風習(秋の収穫祭の一つとして)と考えられいて、十五夜のように中国から伝来したものではないと言われています。 古くは醍醐天皇の時代、延喜19年(919)の九月十三日に、観月の宴が催されたのが始めだとも言われ、広辞苑には「宇多法皇がこの世の月を無双と賞したことによる」と記されていますが、はっきりしたことは分かっていません。 また、旧暦八月十五夜の月見をして、九月の十三夜の月見を行わないことを、片月見と言って嫌う風習がありました。 十五夜の月見を行った後は、翌月に必ず十三夜も月見をして祝うものだとされました。 十五夜には他人の畑の作物を無断で取っても良いとされる所がありますが、十三夜にも同様な風習が各地にあったようです。 例えば長崎県の津島では、この夜の月を豆名月と呼び他人の畑から大豆を取っても良いとされていたそうです。 また長野県には、この夜の天気で来年の農作物の出来を占う風習も残されています。 |
< 十五夜>
旧暦8月十五日(新暦では9月中旬から下旬)季語は秋です。 十五夜は、お月見・名月・仲秋の名月などと呼ばれ、古来から観月の好時節(絶好期)とされ、月下に酒宴を張り・詩歌を詠じ・すすきを飾り、月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛って、神酒を備え月を眺めて楽しんだと言われています。 「仲秋」は旧暦八月十五日のことを指しますが、本来は旧暦の八月を言い、七・八・九月を秋とし、それぞれを初秋・仲秋・晩秋と呼んだことに由来しています。 特に仲秋十五日の満月の日を、八月節・仲秋節と言いました。 昔は、月の満ち欠けによって、おおよその月日を知ることで農事を行っていました。 そのため十五夜の満月の夜は祭の行われる大切な節目でもあったのです。 仲秋の名月を鑑賞すると言う風習は、中国では唐の時代から知られていますが、後に平安時代の貴族の間に取り入れられ、武士や町民へと次第に広まって行きました。 農民の間では農耕行事と結びついて、収穫の感謝祭としての意味を持っていました。 仲秋の名月は「芋名月」とも呼ばれますが、これは里芋など芋類の収穫儀礼であったことに由来しています。 こうして庶民の間で、年中行事として、長く伝承されてきました。 十五夜に行われる行事に、九州地方で良く行われる綱引きがあり、これは農耕祈願・年占行事の一つです。 また鳥取県では、この日初めて芋を掘る日として、「芋の子誕生」と呼ばれたりします。 最近は悪習として廃れましたが、十五夜の夜だけは他人の畑の果物や作物などを盗んでも構わないとか、お月見の供え物を子供達が盗んでも良い等という風習が各地にありました。 秋田県仙北郡に伝わる「片足御免」(他人の敷地に片足を踏み込んで取るぐらいなら公認)とか、長崎五島の「まんだかな」と呼ばれる風習がそれにあたります。 「月々に月見見る月は多けれど、月見る月はこの月の月」等と言い、十五夜の満月は特にもてはやされました。 仲秋の名月を最も素晴らしい月として鑑賞するのは、秋になると夏や春に比べ空気が乾燥し、月が鮮明に見えるからです。 冬の月も美しく見ることができますが、やはり鑑賞するには少々寒すぎることから次第に秋に集中したものと思います。 。 また待ちに待った十五夜が曇り空で、月見が出来ないと言うことも多かったようです。 そこで、十五夜前後の月を待宵月・十六夜月・立待月・寝待月等と呼んで、名月を惜しんだと言われています。 待宵月は十五夜の前日の月見・十六夜の月は十六日の月見・立待月は十七日の月見です。 また仲秋の名月は、古くから詩歌や俳句の材料にもなってきました。 今宵の月・三五夜・望月夜・名月等と詠まれるのは、仲秋の名月のことを指しています。 |